依存・依存性と生涯発達

私なりに依存について書いていこうと思う。

私なりにというのは、当然だが、私自身の体験しかないのであって、一個人の体験談に過ぎないから。

しかし、克服は一生涯かかるかもしれないけれど、依存と折り合いをつけ、恋愛もし好きな仕事も得て(好きではない仕事など長くは続かないからという理由もあり)、結婚出産と、私のブループリントにあった事項をクリアしていくことができたことは、依存と向き合う人への何らかの手助けになると思ったから。

私の場合には、依存だと気がつくまでにかなりの年数を要した。20代は、パーソナリー障害、境界例、引きこもり、鬱、躁鬱といったことが重なり、3年ほど定職についたが、その他はアルバイトを転々としたり、2年ほどは引きこもりだった。

実際、一人暮らしをしていたが、親に連れ戻されてから、それらの症状は悪化したと思う。あの時に一人暮らしを続けていたらと本当に思う。

友達もたくさん失い、仕事場での人と後々まで付き合いが続くことはなかった。最近まで、いろいろな場所で知り合った人たちとは、どうせこの場限りの間柄だとしか思えずにいた。

20代も最後の方になり、このままではまずい・・・・とかなり思っていた私は、ちょうどアマゾンが出だしの頃で本を読みあさり、認知行動療法に出会った。

これは、かなり私を変えるきっかけとなったと思う。

何せ、人がこちらを見ながら話しているだけで、私の悪口を言っているのでは?と思っているような状態だったから。それで、眠れなかったりもしていた。眠れないのは本当に辛い。

しかし、人々がこちらを見ながら話していても、私のことを話している訳ではないことや、たとえ私のことを話していたとしても、悪口を言っているとは限らないことを、これらの本をよむことでこの時初めて知った。

と同時にヨガを始めて、肉体から変えていくこともできた。

と同じ頃、アダルトチルドレン、毒親の概念が広まり、私もその通りの人だと気がついた。

そして、プレアデスから自分が地球にやってきたことを思い出した。ドルフィンスターテンプルとも出会い、ヒーリングのスキルを得た。そして、ヒーラーとして、スピリチュアリストとして活躍していくはずだった。

そうしたいと思い、仕事をやめたが、そうはならなかった。できなかった。

そして、仕方なく元の暮らしに戻った。

一旦は、自分の人生にも夢も希望もあるのかもしれないと思えたが、結局、自分の人生を諦めていた。実家から出ることは許されず、普通に働いて、そのまま親の面倒を見るようになるのだ。私の人生は絶望だ。だが、親の思い通りの結婚だけはしたくない。そう思っていた。

好きでもない仕事だったが、引きこもり生活があったから、何もしない一日よりもマシだ。その程度の満足は得ていたと思う。

休みの日は動画を見て一日中過ごした。

そして、有りもしない誰かとの恋愛を望んでは、空想していた。周りに東京に恋人がいると嘘をついたこともあった。

死んだも同然の日々だった。

その後父親が死んだことで、私は自由を得ることになる。あくまでそれなりにだが長く働いて国家資格も取った。

私は、自由になれると思った。

そして、信頼できるヒーラーのススメもあり、実家を離れた。

しばらく北海道に住んだこともあった。資格があるので仕事には困らなかった。

結局東京に住み、ヒーラーの活動をしたいと思ったが、そうはならなかった。普通に今までの仕事を続けた。

このころから、発達障害の概念が一般化してきた。私はこの分類で言うなら、ADHDとASD、稀にLDが混ざりあった、グレーゾーンの人だ。もし、躁鬱が顕著で、服薬したいた頃なら、グレーゾーンではなかったかもしれない。

しかし、それよりも私の課題となっていたのは、私の母親との関係だった。母親との癒着をこれから先の5年以上に渡って、毎日クリアリングしていくことになったからだ。

私の考えは、実は私が考えているのではなく、母親の考えそのものだった。そんなことを毎日発見していた。そしてエネルギー的にクリアリングしていった。

そして、やっと母親が私を手放さないのではなく、私が母親に依存しているのだと気がついた。

依存の正体はここだった。発達障害は、私の体感で言うなら、依存症、もしくは愛着障害に付随したもの、という感じだ。

しかし、もっと正確に言うなら、

母親の愛情を与えられずに育ったことで、一生涯をかけて愛情を取り戻したい症候群

または、母親に拒絶されたこと=生きることが出来ない=この世界に私は必要とされないことを、一瞬でも思い出しそうになると、何らかの依存的行動に走る。

その依存的行動とは、動画を見続けることの時もあれば、アマゾンで買いまくる時もあれば、母親が喜びそうな行動(誰かから嫌われること、みんなの前で恥をかくこと、失敗すること)をわざと行う時もあった。

発達障害のADHDは父親からのものだった。遺伝ではなく、長く同じ場所で生活したために同じような行動をするようになったというのが、私の体感だ。

ASDは、父でも母でもない。機能不全家族のせいだったのだろうか?

・・・・ここで、これらの発達障害的な部分と、依存症の私を癒やすことが出来た鍵は、サブパーソナリティの概念にあることを紹介したいと思う。

人間の内面には、様々な人格を持ったサブパーソナリティがいて、それらサブパーソナリティたちが個性を充分に発揮することが人の発達である。

という私なりの定義である。

ドルフィンスターテンプルの教えではサブパーソナリティ・副人格は12名存在する。

それぞれに神聖な能力や才能、ギフトを持っているのだが、様々な出来事を通して、それらを失い、時には荒れてしまい、死んだように活動していない存在もいたりする。

実際に私のように絶望の人生を送っていた人のサブパーソナリティは死んだようになっている。それは、退行セッションをして副人格に出会い知ったことだ。

何かを行動したり、考えたりした時に、どちらがいいのか迷って決められない時には、内面ではサブパーソナリティ同士が争っている時だったりする。

そしてADSの私がサブパーソナリティの一人であるなら、ADHDの私も別のサブパーソナリティである。

それでは別のサブパーソナリティはというと、既にヒーリングがされていて、この発達障害の副人格たちに温かい気持ちを持ってくれている存在もいた。

ある時、癇癪持ちのADSのサブパーソナリティは、私の別の副人格が自分よりも苦しんでいることを知ることになった。

自分が母親にされたことに苦しみ、絶対に人に心を開かないと決めていたADSの副人格。道端の花をちぎっては捨てていた。

しかし、私の中の別の副人格が、父親との関係に苦しんで泣いているのことに気がついた時、「自分だけが辛いのだと思っていた。」と言ってくれた。泣いていた副人格は、分かってくれる存在が居ることで癒されたし、ADSだった副人格は、「これまでごめん。」と話し、この時初めて他の人が存在することに気がついたのだ。

そして、自分の中だけの世界から、一歩外に出ることができた。初めての一歩に過ぎないが、本当に大きな一歩だった。

発達障害は、発達途上なのだ。

この場合には、他の副人格との交流で変容が始まったが、インナーチャイルドワークによってでも変わることがあった。

私は、すべての問題は、胎児期から乳幼児期までに、人として扱われたのかそれとも、ものとして扱われたか、精神的に肉体的に傷つけられることはあったか、という表し方もあるが、

結局のところは、母親(家族、または代わりの誰か)の愛情がどれだかの量だったか、

それに尽きると思う。愛情を与えないばかりか、子供から搾取するような環境であるなら、通常の発達はされないだろう。

これを愛着障害と言うことが多いと思う。

それなら愛着障害も、それから発達障害も、癒やすことはできると思う。

発達の途上、未発達なだけだから。

長い道のりだと思うが、少しづつ変化変容していって、例えば5年前の自分を思い返すと成長したと思えたり、10年前とは全く別人だ、そんな実感もあると思う。

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