虐待?殺人?

身体に残っていた虐待?の記憶。

食べ物を与えられなかった。

心臓は何回か止まった。顔に布をかけられたりもした。埋められたか、真っ暗な中に入れられたこともあった。

その時には高次元との間で、生きるかどうかを問われて、私はもう一度生きることを選んだ。

母は、子供を産む必要があったため、私を産んだが、自分の責任が終われば、私は必要なかった。おそらく、ある程度まで私が生きれば、その後死んだとしても、自分の責任は問われないと思っていたようだ。

子供を育てるという認識がなかった。自分の都合で子供は存在していた。

そんなことがあって、私は母の裏の心を読むようになっていった。

人の心の裏側を読むようになった。

生きるためには人の心の裏側を読んでそれに従うしかないと思っていた。

嫌な性格になったと思うが、生きるためには仕方なかった。そうするしかないと思ったのは本当に乳児か幼児の頃だ。責めるなんて出来ない。

愛情をかけてくれるはずの母親から殺されかけたとしたら、どんなに嫌な人間になったとしても仕方ないと思う。実際に嫌な人間だったと思う。ここ数年は、自分の器の小ささに笑ったこともある。

愛着障害。私のような愛情を受けて育たなかった人をそう呼ぶ。

インナーチャイルドの癒やしは必須となる。私も毎日やっているが、インナーチャイルドに向き合えるようになるまでには年数がかかる人もいる。私の場合にはスピリチュアルに目覚めてから7年か8年はかかった。それは本当に癒されてしまうし、本当に自分に向き合うことになるからだと思う。

そして実際のところだが、今日は仕事に行かず、一日何もせずに過ごした。夕方になり情けないと涙が出た。

しかし、ミカエルがやってきて、そう思わなくてもいいこと、大きな山を越えようとしているから、そうなってるだけ、今日はピザを注文して動画を見続けてもいい。自分をダメだとは思わないでと言ってくれた。

明日は仕事。今ごろは再就職している予定だったが、うまくいかない。その日暮らしだなあと思ったりする。

それも、今心の準備してそうなってるから、ちゃんと進んでいるから大丈夫と、ミカエルや天使たちが言ってくれた。

いいこともある。私は依存症だった。その時々で、過食だったり、動画を一日中見続けたり、買い物中毒になったり。

しかし、そのどれも、もうやっていたない。摂食障害も、買い物中毒も、なくなったし、動画も見なくなっている。今日は久しぶりに見たけれど。タバコは大昔に吸いたくなくなった。

なんでやめられたかといえば、過食をしても、買い物をしても、動画を見ても、気が晴れることがなくなったからだ。それよりも、美味しいものを普通の量食べるほうが楽しくなったし、本当に好きなものを買いたいと思うようになったし、本当に見たい映画だけを見たいと思うようになった。

虐待?殺人?今となっては分からないが、そんな中を生きてきた私、人生はただ過ぎていくのを見ているしかないと思っていた私においても、少しづつ自分を取り戻すことができていると思う。

ADHAと家系

発達障害っていうと、会社では絶対に話せないことで、そういった人種はここにはいられないようなそんな風潮。

実は私もグレーゾーンだと自覚したのはここ1,2年。

もちろん、発達障害的な症状は、自分が望めば癒やすことは出来ると私は思っている。

私の場合には、父との関係性の中でADHDっぽくなったと自己分析している。

父というより、家系との関係と言ったほうが正確かもしれない。

私の家系での役割は、最後に生まれた要らない子供。だからエネルギーを家系の重要な人物や、家系の存続のために使われることに同意すること。同意するなら生きていてもいい。みたいな感じだった。

それで、私の人生の重要な場面になると家系からの、“それって本気でやるわけじゃないよね。あなたの人生なんてないんだから”的なエネルギーが私を取り囲むようになり、その時にADHD的に、多動で衝動的になる。

いつも大切なことを決める時には、どうしても衝動的に決めてしまってい、あとで後悔もしたが、それもそういうエネルギーの中で生きてきたからだと思う。父が生きていたときは父がやってきてことごとく私の希望を封印した。本来の決定ができなくなる。亡くなってからは家系のエネルギーがやってくるようになった。

そして、自分が望んでいたことを、望んではいないのだと思い込ませ自分を欺いていた。

だから、最近でもよく、私って何が希望で何が好きなんだろう?と分からないことがある。

ただこれらは私が生まれてからそうだったので、自覚するのにかなりの年月を要した。

注意欠陥については(これってなんかひどい言い方だけれど)、これまでに必要な持ち物を一切合切持っていかなかったこと多数あり。昨日ちゃんと見てたのに〜

私の場合には、前日に全部用意しておこうは対策にならない。

しかし、毎回全部忘れるわけではなく、大概はちゃんと持っていく。

今は、もしかしたら忘れる時ってもともと行かなくてもいい要件なのかも?と思うようになっている。

私の場合には父が注意欠陥多動性障害であり、父親の家系がそうだったと思っている。ただ父の場合には、その衝動性がいい結果につながっていた。多動の人は割りと多いと感じる。

これとは少し離れるが、私よりもずっと年上の人の中にも、どこから見てもインディゴチルドレン(宇宙から来た魂)だと思われる人とこれまで何人にもお会いしてきた。その人達の中には、何かの瞬間にスイッチが入って怒り出すと止まらない人とかもいて、決して素晴らしい人格だと思うわけではなかったが、今のようにスピリチュアルのない、発達障害の概念もない時代に生きてきたんだと思うと、同じ宇宙出身としては何ともいえない気持ちになった。

しかし、これからは宇宙人ですとか、スターシードです、プレアデスから来ました。などという挨拶が出来る地球になると思うと、みんな自由になれるなあと感慨も湧いてくる。

うつと過食のメカニズム

うつと過食の関係について。

うつ、気分の落ち込みや体調不良全般にも関わる、血糖値とエネルギー消費の話しです。

過食な時には、一気にたくさんのものを食べてしまいますよね。

その時、身体の中で血糖値が一気に上昇します。

脳は糖分の吸収により快楽物質を放出しますので、気分が良くなったり、落ちついたり、安心したりできます。

過食の時はこのようになっているんです。

一方で、身体はというと食べた分のたくさんのエネルギー・カロリーを消費することになります。

エネルギー消費だけで身体はめいっぱい、くたくたです。

そして、気分がいいのは一時的なものに過ぎません。

脳がハイになる時間が過ぎれば、身体の状態に気がつくことになります。

身体はその時にはエネルギー消費で必死になっているわけで、実際には疲労困憊しているでしょう。

これが、何もしていないのに疲れてしまうと思うメカニズムです。

さらには、気分が良くなっていた分だけ、落ち込みも激しくなります。

血糖値が急激に上昇した後は、今度は一気に下降してしまうためです。

自律神経のバランスがくずれて、うつや気分が落ち込みやすくなります。

まとめると、過食→気分が良くなる(落ち着く、安心する)→気がつくと何もしていないのに身体が疲れている→落ち込む

このパターンです。

自分の状態を客観的に分かることは大切なことです★

ガーゴイル


満足できない

満足できないことについてです。

何をやっても満足できない。

欲しかったものが手に入って嬉しいと思ったその一時間後には、次の何かを必死に物色している。

何をやっても、自分なりの成果をあげたとしても、欲しかったものを手に入れても、買っても買っても、結局は満足できない。

私は、ネットショッピング中にこのモードに入ってしまうと、買っても買っても満足できないことが分かっているので、カートに入れてからしばらく時間を置くことにしています。

また、こんなときとは、高額な買い物をしても、安いものを買っても同じだということも分かっているので、洋服なら2000円以内で探すようにしています。

そして後日、本当に必要なものだけ買うことにしています。

それでもたまには、買いすぎてしまうんですが。

しかし、この満足できない性質?性格?!には悪いことばかりじゃなく、いい面もあります。

私がプログラミングの基礎を覚えることができたのは、満足できない・少しの妥協もゆるせないというこの性格があったからなんです。

自分のサイトを完璧に仕上げたかったので、独学でHTMLとCSSを覚えてしまったんですね。

こんな時には、この困った性質が力を発揮してくれます。

また他にも、デザイン学校の夜間クラスに通って服飾を学んだり、独学で油絵を描いたりしたのも、この凝り性、こだわりが強いという性格のなせる技だったと思います。

満足できないことがプラスに働くこともあります。

しかし、満足できないことの根源的な部分に目を向けると、それは辛く苦しい部分があります。

何をやっても満足できないのは、何をしてもそれをしている自分に満足ができないことです。

つまり、自分で自分を認めることができないということですよね。

究極的に自分を認めていないから、それを買い物や何かで紛らわそうとします。

しかし、究極的に認められない自分が何をやっても、結局は、だめな自分からは逃れられない。

一時的な快楽で紛らわせようとしても、認められない自分は変わらずそこにいるんです。つらいなあって思います。

だから、何をしても、何を買っても、何をやったとしても、それが素晴らしい成果を出したとしても、だめなんです。

どうして、こんなことになってしまったのでしょうか?

そして、満足できない自分への処方箋はあるのでしょうか?

この問題の根源は、子供時代、幼児期、乳児期、胎児期の自分と家族・母親の関係です。

そして処方箋は、自分で自分を認めてあげること。これしかありません。

仮に優しさで他の人が自分を認めてくれたとしても、次もそれを望んでしまいます。おそらく次はないでしょう。私はそう思います。

自分で自分のやったことが認められないのは、子供時代にお母さんが認めてくれなかったからです。

子供にとっての母親は全てであり、全世界のようなもの。

母親から受けた否定、拒絶、拒否などの体験は、そのまま自己否定となってしまいます。

世界は私を拒絶したんだ、私はだめな存在だ、私は一番大好きな人から否定された、生きていても仕方ない・・・・

そんな風に思ってしまった、そんな体験が元にあったと思います。

今の大人の自分であれば、否定されたとしても、全人格を否定されたとまでは思わないと思います。

しかし、子供にとっては、存在意義がないと言われたのと同じでした。

人格を否定されたと思い込み、絶望したんです。

これが満足できない原因です。

さて、そんな自分自身への処方箋、まずだめだと思っている自分と向き合う事が必要になります。

ネットショッピング

過食

〇〇中毒、◇◇依存

そんな依存的行動をしている自分と向き合います。

それは、辛く苦しい作業でしかありません。できれば避けて通りたいです。

しかし、まずは、何かに依存していなければならないほど辛いことを認めます。

母親から否定された絶望を抱えて生きているんだと。

これは、本当に辛い出来事なので、生きていることが奇跡だとも思います。

これまでよく生きてきた。

がんばった。

生きているだけで凄い。素晴らしい。私は本当にそう思います。そう自分自身に何度も言ってあげました。

誰も言ってくれません。でも、なにがあっても自分だけは自分の味方だと決めました。

そうやって少しづつ(本当に少しづつしか進みません)、自分で自分を認めてあげていくことで、満足できない自分から、満足できる自分へと変わっていけると思います。

それも自分あれもこれもみんな自分だと、いいことも良くないことも全部認めてあげることができるといいなと思います。

可愛いブッダ